天守は、もともと華麗な五層の天守で本丸西南隅にあった。寛永4年(1627年)に落雷で焼失し、再建しようとしたが、「武家諸法度」では天守の新築を禁じていたため、やむなく隅櫓の名目で幕府の許可を得て、今の三層の天守に。弘前の […]
信濃守護家の小笠原氏が支城の一つとして1504年(永正元年)築いた深志城が松本城の前身。1550年(天文19)武田信玄が信濃府中に進出し小笠原氏の駆逐し、深志城を兵站基地に大改修した。1582年(天正10)武田氏が滅亡す […]
柴田勝家の甥、勝豊が1576年(天正4)築いた丸岡城の天守は現存する最古のものといわれているが、慶長後期の特色もみられ、1613年(慶長18)に城主となった本多成重によって大改修されたか、このころの築城かともいわれている […]
織田信長の叔父織田信康が1537年(天文6)木曽川沿いの丘にある砦を城に改修したことに始まる。美濃と尾張の国境の要害にあるため、数々の合戦の舞台となっており、城主もめまぐるしく交代している。本丸は最高所に位置し現存最古の […]
彦根市街地の北部、標高約136mの独立丘陵に位置。関ケ原で勝利した徳川家康が石田三成の近江18万石を取り上げ、徳川四天王の一人、井伊直正に与えた。直正は三成の居城・佐和山城を取り壊し、すぐ近くに城を築こうとしたことに始ま […]
姫路城の始まりは諸説あり、最も古い説は1333年(元弘3)赤松則村が姫山に砦を作ったときとする説と戦国時代後期の黒田重隆・職隆親子による築城を最初とする説がある。職隆の子官兵衛孝高(如水)が1580年(天正8)羽柴秀吉に […]
松江城は関ヶ原の戦いで戦功があった堀尾吉春・忠氏親子が徳川幕府の許可を得て宍道湖を見下ろす標高28mの亀田山に、1607年(慶長12)より4年の歳月をかけ築城した平山城。1611年(慶長16)に完成した四重五階地下一階の […]
天守は現存12天守のうち最小であるが、唯一山城に残っている天守である。 備中松山城は鎌倉幕府の地頭、秋庭重信が1240年(延応2)の臥牛山の大松山に居城を築いたのが最初といわれる。秋庭氏は6代続いたが、目まぐるしく城主が […]
丸亀城は、丸亀平野の北端、標高66mの亀山に豊臣政権下の1597年(慶長2)高松城を本拠地とする生駒親正が支城として築城したが1615年(元和1)一国一城令によって一旦廃城となった。その後1641年(寛永18)山崎家治が […]
豊臣秀吉の家臣で賤ケ岳の七本槍の一人として名をあげた加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでは徳川家康側として参戦し、その戦功として伊予を与えらた。嘉明は1602年(慶長7)標高132mの勝山山頂に五重天守を持つ本丸を置き、山麓に居住 […]