2012/04/24 カテゴリ:登城録(九州・沖縄地方)
4月13日。佐世保駅からの出発です。
本日は、日本三大美肌の湯、嬉野温泉を予定しています。7:40です。では36.1km(約1時間)走って平戸城へ向かいます。
平戸は、数年前にバス旅行で来たので、シッカリ覚えていました。
現存する狸櫓は、江戸後期に修理をしようとしたところ、住み着いていた狸が小姓に化けて藩主に命乞いをしたからとか・・・
※狸櫓の伝説(参照wikipedia)
・櫓の床下に狸が住みだした。天保初年(1830年頃)櫓の修理のため床板を全て剥ぎ取った。するとある夜、小姓に化けた狸が藩主の寝所にやって来て、我ら一族を櫓に棲ませて頂きたい、そうすれば城を永代守護すると嘆願したので、翌日、床を元通りに戻してやったと言う。これ以後、この櫓は狸櫓と呼ばれるようになった
天守閣からの展望。コンクリート造りです。
ここから、83.5km(約3時間)走って名護屋城跡へ。故に、時間がないため、松浦史料博物館や聖フランシスコ・ザビエル記念教会・オランダ商館も港のお土産屋さんも天守閣からの展望のみです。
随分一般道を走りました。12:00名護屋城址着
ここには随分立派な「佐賀県立名護屋城博物館」が。名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた城です。僅か5ヶ月24H昼夜兼行で20万人が駐留する前線基地を造ったとのこと。7年間の大陸侵攻の拠点となったのに、秀吉はここに淀殿を呼んで11ヶ月しか居なかったと。
島津義弘・上杉景勝・加藤清正・徳川家康・黒田長政・伊達正宗等々錚々たる戦国大名の陣屋が築かれていたと。皆さん歩いて日本全国から大勢の軍勢を引き連れ、食料・武器・弾薬をどうやって運んで来たのでしょうかね。
大陸侵攻時の日本の軍船ですが、漕ぎ手が多くて兵士や食料がこれでは運べなかったのでは?北前船を使ったとの説も。
下の軍船が朝鮮のものです。鉄板で覆われ完全な軍船です。これでは海上戦は日本の負けですね。チャンと大砲も装備されています。
また、少し雨が降って来ました。
石垣だけの城址ですが、当時の天守閣は金箔瓦が使われていたが金箔瓦が出土しない?名護屋城から撤退するとき金箔瓦を含め各大名が目ぼしい物を国元に持って帰ったとか・・・?
下の写真が天守閣跡の石碑です。馬鹿な戦いをしたものです。でも中国進出は、秀吉が初めて考えたのではなく、信長の描いた夢?を秀吉が踏襲したとの説も。
お腹がすきました。また、海岸伝いに一般道を走ることになるので、腹ごしらえ。「呼子イカ活き造り」が名物と言うことですが、今回は佐賀牛定食に
14:10さあ、次の佐賀城へ向けて出発です。途中100名城には入っていませんが唐津城を観て佐賀へ。71km約2時間の道のりです。
14:50唐津城着。ミステリーツアーでここもホテルから見えたところですが、立ち寄りはしませんでしたので、寄ってみました。
下の写真は高島(宝島)でここは船で渡りました。宝くじが当たると言う宝当神社が有る所です。私達もその時お参りしましたが、その後も当たってません。残念!
16:30佐賀城着。
佐賀城石垣をバックに、新婚さんが写真撮影をしていました。
佐賀藩は薩摩藩・長州藩・土佐藩とともに、明治新政府の新しい国家の制度づくりに参画し、多くの分野で活躍する人々を輩出していた藩ですね。長崎も管轄下になっていたとのこと。反射炉を造りアームストロング砲を鋳造。その大砲を江戸まで引いて行き、お台場に設置したと。お台場の大砲は佐賀藩製なのですよ。佐賀県は県立施設はタダ?先の名護屋城もここの本丸御殿もタダです。
復元された本丸御殿の中はボランティアが案内してくれました。というか、調度案内している後ろから付いて行きました。
客間は檜を使っていますが、裏方(殿様の居るところを含めて)は杉の木で倹約を旨とした建物です。
展示物等は上記HPを参照してください。
17:30それでは、本日のお城巡りは終了ですので、嬉野温泉へ行ってみます。但しここから高速道路で1時間程度かかります。
18:40嬉野着。コンビニで、日帰り温泉を尋ねたら、源泉の元湯温泉と湯豆腐の「よこ長」を紹介してくれました。
元湯温泉は大衆浴場ですのでお風呂代のみ350円です。銭湯より安いですね。
湯はを多く含む重曹泉。皮脂や分泌物を乳化して洗い流し、湯上りはまるで一皮むけたようなつるつるスベスベの肌に!←実際この通りですよ
『日本三大美肌の湯は佐賀の嬉野温泉・島根県の斐乃上温泉、栃木県の喜連川温泉』だそうですよ。
それでは腹ごしらえ。温泉湯豆腐発祥の店「宋庵よこ長」へ。遅いせいかお客は我々だけ。お品書きの品数が多いこと。定番の湯豆腐定食を、これで790円ですよ。チャンと食べ方を教えて頂きました。美味しかったので、買って帰ろうとしましたが、「日持ちがしないので、HPで頼んで下さいと」故に下記記載のHPで各自、自腹で取り寄せてみて下さい。美味しいですよ。ただ、豆腐より送料が高いかな。
20:40腹ごしらえが出来たので、本日の宿泊場所 コンフォートホテル佐賀へ戻ります。今日の後半は高速道路を行ったり来たりです。
21:30ホテル着 お疲れさまでした。では、また・・・・
【追加情報】 佐賀城本丸に謎の地下階段 設計図に記載なし
2018/2/1 佐賀新聞より
■佐賀城本丸跡の発掘調査で見つかった地下に続く石の階段=佐賀市城内
佐賀城本丸歴史館と佐賀県文化財課は31日、佐賀市城内の佐賀城本丸跡の発掘調査で、差図(設計図)に描かれていない遺構が見つかったと発表した。地下に続く階段が新たに確認され、水場や抜け穴などだった可能性がある。本丸御殿は佐賀藩10代藩主の鍋島直正によって江戸時代末期に再建されており、県文化財課は「本来の姿を知るための重要な手がかりになる」とみている。
敷地の南東側で調査を進めていたところ、女性の居住空間に当たる「奥」と呼ばれた場所で、砂岩でできた6段分の階段が地下に伸びているのが見つかった。当時の地表から1・1メートルほど下るつくりで、水場や抜け穴、貯蔵庫、避難所などさまざまな用途が考えられるという。来年度に詳しく調べる。
県文化財課の渕ノ上隆介主査は「設計図は建物だけが描かれ、地下や水路は読み取れない。当時から、地下の構造まで加味した設計が実施されていたことが分かった」と話す。
調査では、佐賀平野の軟弱地盤に柱を据えるための「蝋燭地業(ろうそくじぎょう)」や「赤石積み地業」と呼ばれる基礎工法が採用されていることも明らかになった。「御側使(おそばづかい)」や「碁役(ごやく)」など役職名とみられる文字を書いた陶磁器も多数見つかった。
遺構を保存するために現場は埋め戻す。その前の2月3日に現地説明会を開く。問い合わせは本丸歴史館、電話0952(41)7550。