2010/08/29 カテゴリ:登城録(近畿地方)
2010/7/17 伊賀上野城へ行く前に、寄り道。
電車で大和・西大寺駅まで。先ずは、平城遷都1300年祭が開催されている平城京を見学に。
大極殿・遣唐使船が復元されています。
まあ、広い広い。大極殿は9:00から入場ですので、中には入れません。塀越しの観覧です。日陰がないので、まだ8時前ですが暑い暑い。これでは日中の見学は大変です。
警備のガードマンも2度暑さで倒れたとか・・・
賛否両論があった「せんと君」残念ながら、まだ、早すぎて、会場に来ていないと。
再建なった大極殿。大きく立派ですね。
さあ ホテルに戻って城巡りの出発です。
10:10松尾芭蕉生誕の地で伊賀流忍術発祥の地。伊賀上野へ出発です。ちょうど1時間。
伊賀上野は2回目ですが、忍者屋敷しか覚えていません。その当時に城はなかったかと?調べましたが、有ったようですね。ただ、この天守は伊賀上野城跡にある藤堂高虎が構築した天守台(竣工をひかえた1612年(慶長17年)に嵐のため天守は倒壊しその後、豊臣氏の滅亡で堅固な城が必要なくなったのに加え、武家諸法度による新規築城や改修の規制により江戸時代を通じて再建されることはなかった)に衆議院議員であった川崎克が昭和10年、私財を投じて建てた復興天守または模擬天守(木造で瓦葺き、白漆喰塗籠の層塔型3層3階、高さ23メートルの大天守と、2層2階の小天守)だそうです。
木造で建てられているが、五層天守の天守台に三層天守を建てたために、天守台敷地の半分程度しか使用していず、史的考証などもなされていない。とのこと。何処か小田原城に似ていないですか?
天守から伊賀の街を望む。
ここでは、俳聖殿(芭蕉の旅姿をイメージした建物?殿内には等身大の伊賀焼芭蕉坐像が安置されてとのことでしたが、殿内には入らなかったため確認できず。
忍者屋敷、だんじり会館を見学。廊下の板を外すと、その下に隠し刀が入ってます。
ただ、忍者屋敷は、昔は城内ではなかったのでは・・・・?
だんじり会館では忍者に、お出迎えいただきました。
もう13:20 さて、最後の松坂城へ向かいます。
都合によっては、もう1泊してから東京へ向かうことも考えましたが、途中の城は既に登城しているため、松坂城址を観たら、伊勢神宮の外宮を拝観して、夜ユックリ帰ることとしました。都合車中2泊、ホテル1泊の行程になりました。
松坂城址には15:40着。石垣のみの城址です。
城は、北を流れる坂内川、南を愛宕川を外堀とし、中央部に位置する標高35mの独立丘陵を利用し築かれ、本丸や二の丸をはじめ主要な曲輪は、総石垣とし、特に需要地点には10mを超える高石垣が構えられており、二の丸跡と上段、下段に分かれた本丸跡の高石垣は三重に重なり、要所に櫓を配し、複雑な桝形虎口を連続させ、折れを多用する等強固な防衛を誇っています。
城内には本居宣長の隠居所が・・・しかし、ここは時間がなく外から見学のみ。最初は「どうして城内に一介の学者の隠居所が?」と不思議気に思いましたが、移築されたとのこと・・・それで納得。
また搦め手から降りると、すぐ近くに御城番屋敷という、江戸末期に旧紀州藩士が松坂城警護のために移り住んだ屋敷(組長屋)が並んでおり、一部、観光用に公開されているが、実際にまだその子孫の方が生活されているという珍しい長屋でした。
赤いコーンがやぼですね。
下の写真は「御城番屋敷・土蔵」です。案内板には「江戸時代末期に松坂城内の隠居丸に建てられていた三棟の土蔵(米蔵1、道具蔵2)のうちの米蔵で、明治初期に苗秀社に払い下げられて現在地に移築されたと言われている。このことが事実ならば、旧松坂城関係の建物としては、唯一の現存する建物となる。」とあります。
これで今回の城めぐり(紀伊編)は終了です。何時もは1日4~5城と忙しかったのですが、今回の巡った城は1日3城。時間的な余裕が何時があり、寄り道が可能でした。
それでは、伊勢神宮の内宮・外宮に寄って、家内安全・健康・帰りの安全を祈願し、帰路につきます。
お疲れ様でした。
これからは寄り道です。松坂に大学時代の友人が住んでいますので、携帯の住所録をみましたが、登録なし。残念。松坂牛を奢ってもらえたのに。しかたなく、一応松坂牛の有名店、和田金の前まで行きましたが、高そうなのでパスで、珍しい色のマックを見付けたので腹ごしらえ。随分格が違ってしまいました。
それでは、付録です。伊勢神宮外宮に到着。外宮は今回が初めてです。
夕方になって、暗くなってきました。急いで内宮に向かいます。
日が暮れてきました。暗くならないうちに。お参りを。
月が出てきました。静寂の中、幻想的です。
おかげ横丁も店が閉まってしまいました。それでは東京へ帰ります。何時間かかるかな?