2015/06/01 カテゴリ:日本100名城 ,登城録(関東・甲信越地方)
箕輪城跡が近付くにつれて、6年前に訪れた風景が蘇って来ましたが、大きな駐車場が出来ているのにはビックリです。普通車78台、身障者用3台、大型バスも6台駐車できるもので、昨年完成したようです。
高崎市では史跡整備のための発掘調査を平成10年度より開始し史跡の環境整備・遺構整備に平成23年度より着手しているとのことで、行政も力を入れてきたようです。
綺麗なトイレも出来ています。
では、前回と同様、搦手口より、登城です。ここは前回訪れた時も花が咲いてましたが、さらに整備されて綺麗になってます。ここから若干の登りですが、前はこの上の二の丸まで、車で行けましたが、現在は駐車禁止で、整備された駐車場に車を置いていくことになっています。二の丸にはボランティアのおじさんが2人。箕輪城跡のパンフレットを頂きました。
二の丸付近も前は木が茂っていたと思いましたが・・・?聞いてみると、「今は伐採して整備している」とのこと。また「平成27年度は郭馬出周辺整備の2年目として郭馬出西虎口の城門復元工事を行っており、来年完成予定ですのでまた来てください」と。高崎市役所で頂いたパンフレットを見せると「そのパンフレットは貴重ですよ。もう数が少ないので配布しないようになっているんだがな・・・?」と。高崎市役所を先に行ったのが正解だったかな?!
それでは、巡ってみましょう。先ずは二の丸から、石碑がある本丸に向かいます。二の丸の説明板には「二の丸は縦横各80m程の郭で、本丸が持久防衛のための郭であるのに対し、これは出撃の拠点である。東は搦手口に西は白川口、大手方面へ、南は大堀切土橋から木俣方面へ出撃できるようになっている」とある。
本丸馬出しを通過です。本丸に箕輪城跡の碑があります。前回はここまでで、引き返しでしたが、今回は主要なところを観て回ります。
本丸は、次の北側の「御前曲輪とともに城の中心部で、南北約100m、東西約70m、東側には高い土手を築いて城内が敵に見えないようにしてある」とある。
広い本丸を抜けて御前曲輪へ。「御前曲輪は本丸の詰めにあり城の精神的な中心。西南の角に物見・戦闘指揮のための櫓があり、その下は石垣で固められている。武田信玄に攻められ3日間にわたる戦いで落城。その際、長野業盛以下自刀した持仏堂があったと伝えられている場所」とある
御前曲輪にある下の写真の井戸は深さ約20mで1927年(昭和2)に豪雨のため地盤が沈下したのがきっかけで発見されたものとか
それでは、堀に沿って周ってみます。下の写真は「御前曲輪 西石垣」で通仲曲輪・御前曲輪との間の堀に架けられた橋の橋梁部の土留めのために、自然石をそのまま積み上げた石垣(野面積み)
堀に沿って歩きます。日差しが強く暑いです。
土塁と堀が続きます。
堀を登って三の丸を通過。
三の丸門跡と石垣で、「三の丸は二の丸の外側にある郭で三の丸門には西側の石垣の上を渡した櫓があった」と。ここからはまた下りです。
三の丸の石垣です。
大切り掘りを覗き込んでいると、入口にいたボランティアの方と一緒になりました。昼食時間ですので、自宅に帰られるとのこと。この大堀切、発掘調査では、現在の堀の下6m以上に当時の堀が埋まっているとの説明を頂きました。よくもまあ、深く掘ったもんです。
どんどん下って行きます。武具などを作製、修理した鍛冶場があった鍛冶曲輪を通過。
いったん公道へ出て、大手たる虎韜門から駐車場へ戻りますが、その前に「白川口埋門を観た方が良い」とのことで虎韜門を通過。
虎韜門から白川河原に出る秘密の通路で西部城外への道はここ唯一で、虎口(出入口)の両側に石垣を積み、上に木や石を渡して土手をその上に盛りトンネル式に作った門。室田の鷹留城とは別城一郭の編成で連絡用等に利用したものと言われていると。また「ここを観る人は少ないですよ」とボランティアの方。下の写真が抜け道。今は竹林のトンネルになっていますが、竹林の下には石垣が見えます。抜けると畑が広がり、その先に川が。山二つ越えると室田の鷹留城だと。
ここで、ボランティアさんとは「さよなら」をして虎韜門から再度城に入り、駐車場へ向かいます。
郭馬出西虎口の城門復元工事が行われています。完成すれば、また感じが大きく変わるでしょう。
さて、11時になりました。高崎に一旦戻り、昼食後、小幡陣屋に向かいます。